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キノプラ太-矢野の仕事が無いAV監督日記。

AV監督、キノプラ太-矢野の仕事覚え書き。

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AVの批評について。

面白いAVなるものを作るためには、批評が必要だと思う。
感想文ではなく、批評。
その作品が何故、どういった意図で作られ、どういう時代背景と政治的な環境の中で発表されたのかを、見る人間に伝える批評。それがいかに優れていて、または優れていないのか?そういう作品があることを知らしめる批評。

そんなの関係ない、見る人が自由に見ればいいじゃん!っていうのも判る。が、見るのは誰でも出来る。でも理解するためには時代や作家の意図から考えていかなければ本当は理解できない。
理解していないものの価値は発見されないし、過去の作品を越えていくこともできない。
だから、AVはいつまでも「なんとなく」消費されていくものなのだ。


で、仕方ないので自分でやろうかと思ったのだが、せっかくなのでAV史というものを一回整理してみたいと思う。AVの変遷をたどる中で、AVが得たもの損なったものを考え、AVとは何か?を一回考えなおしてみる時期なのではないだろうか?



それについて考えているときに見つけた、とてもいい文章がありましたので・・・
http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-53.html
松尾光太郎de海馬之玄関FC2版というHP。書かれたのはkabu2kaibaという方だそうです。
勝手にリンクしてすみません。
AVの歴史と日本人の性意識の変遷をわかりやすく解説されていてためになりました。今のAVが抱える問題点も指摘されています。

もう一つ。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1055611.html?check_ok=1
こちらは、AVの疑問に色んな人が答える掲示板です。こちらも勝手にリンクしてすみません。
AVの影響で、男性が女性を人間として見れなくなっているのではないか?ということに関する質問です。
様々な回答があるわけですが、おおむね「受け取る人間の価値観、モラルによる。一部のどうしようもない人間はいるが大多数は問題ない。」という感じの回答が多いようです。
詳しくは読んでみてください。

そこで僕が思ってしまったのは、では僕らつくり手はまっとうな価値観を持っているのだろうか?ということ。人間として女性と接し、描き、官能を表現しえているのか?むしろ性的異常者が現実の代償行為として作っていることはないのか?
そのような作品?が一般に流通し若い受け手の価値観を変質させている可能性はないのか?
たかがAVであれモラルは必要ではないのか?
アンチモラルが刺激的だから、という理由で犯罪的行為に過剰に進んでいくAV業界には良心はないのか?
まず、AVが社会にあたえた影響を考えたうえで、僕らはAVを作っていくべきではないのか?
アクション映画の監督が刺激を求めて実際に撮影で人殺しをするのは正しいのか?
ならAV監督はAVの刺激のためなら何をしても良いのか?

すくなくとも女の子に人格を与えない人形として、体を痛めつけるような内容のAVをつくることは、まともな神経ではないと、はっきり僕は思います。

映像が人に与える影響を考えるなら、ある程度はまともな人間が撮らなきゃならないのではないか?もしそれが天才の仕事であっても、モラルに反することはしないのが大人の責任であると思う。AVであるからこそ、必要以上にセックスに対して慎重に描く義務があると思う。



 


  1. 2008/01/31(木) 01:49:59|
  2. AVを作ること
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AVをつくるということ。12。わかりやすさについて。

AVでとにかくメーカーから求められるものは、判りやすさである。
このビデオは「**もの」であるから「**もの」でない要素は入れないでくれ、ということである。
これだけAVのジャンル分けが特化した時代であるからに、「人妻もの」「ロリもの」「陵辱もの」「痴女もの」「ドラマもの」「ドキュメントもの」等々・・・のジャンルが混ざらないようにしてくれと言われる。
そこで監督も女優も男優もプロであるので、「**もの」のジャンルに合うように仕事するのです。
で、仕上がったものは完璧に「**もの」になり、メーカーのOKを頂くのですが、「**もの」以外のなにものでもないのです。
それ以上の何か?というものが一切ない。女の子は本名の**ちゃんを捨て、芸名の**ちゃんをも捨て「名も無い**(例えば名も無いエンコウ少女)」であって、人間的な深みや複雑さは一切ない。
実に判りやすい内容である。
ハリウッドの映画がエンターテイメントのプロであるのは、明快でわかりやすい内容と表現をするからだと思う。この映画は「こういう内容」で「こういう主人公」と「こういうヒロイン」と「こういう悪役」がいて・・・とはっきり理解できなければならない。それゆえに、誰が見ても楽しめる娯楽エンターテイメントであり、プロとしての仕事なのだが、見終わったあとに全て忘れてしまうのはどうか?
観客というのは想像力がないから、判りやすくするのが務めだ、という考えは理解できるけど、判りやすくしすぎることで却って観客の想像力を無くしているのではないかしらん?

映画って印象に残る場面って「あれ、何だったの?」っていう場面が多い。
一見意味不明なショット、意味不明な表情、台詞。
それが引っかかっていて、ある日突然「ああ!あれはこういう意味だったんだ!」と気づく楽しさ。
それを排除された映画に残る印象はない。
AVも同じ。


パッケージで考えると、
特に「**もの」というイメージを明確に出すことをメーカーには要求されます。
パッケージでジャンルが判らないと売りにくいのだそうです。
で、これは「人妻もの」

rori

エプロン姿の若奥様が微笑んでいらっしゃるイメージの写真です。
まあ、ストライクゾーンです。

で、もう一個、グラフィスさんから勝手に借りましたが(すみません)
512hlux001sopl.jpg

国仲ありすちゃん可愛い(笑)・・・、っていうそんな話ではなく、
これも人妻ものです。
タイトルが付いてなければ人妻ものとはわからない。


どっちが「良い」パッケージでしょうか?
商品としたら、先のほうが正統かもしれないのですが、僕は後のパッケージに惹かれるのです。ありすちゃんが可愛いから?ここには載せませんが他のありすちゃんの写真よりいいです。つまりモデルの問題ではないです。


いわゆる「ニコパチ」写真って可愛い綺麗ですけど、「ニコパチ用」の作った笑顔だったり、典型的な構図になってしまったり、さっきの「**もの」のように完成度が上がればあがるほど、モデルの人間性が消えてしまうのではないか?と思うのです。

人間って、一面的なものではない。
笑顔があれば泣き顔もある、善人の反面、汚い部分もある。楽しい日々と同時に悲惨な事件もある。迷いもあれば、嘘も、ある。撮影まえに大食いしたり、食べ過ぎてウンコしたり、実はセックス大好きだったり、、そういう複雑な生き物だと思うのです。

後の写真には、何か心を惹かれる。
この女の子そのものに惹かれる。人妻だかなんだかより人間として気になる。
そういう意味で、この二つの人妻もの、僕が買うなら後のほうです。

だって先のほうは、目を離したら、もう表情を忘れてしまうくらい型にはめすぎだと思うもん。

人は、良くわからないものをみると想像力が膨らむものだと思う。


AVは内容だけ過剰に過剰に進めてきた。
プレイの過剰さ。
でも、こういう女の子っていう像が見えないとエロにはならないで人体実験にしか見えなくなる。
フィギュアスケートで例えるなら、今まで大技ばかり決めてきたけど、そろそろ演技力芸術点も考えたほうがよいのではないかということです。

女の子の描き方でしょうね。
人気単体なんて、「にっこり笑って、はいセックス」みたいなアイドル像を演じさせられていると思う。こういう感じでやりましょう、って言った瞬間に、本当の表情が写らなくなってしまう。

人生を背負った人間は複雑なものだし、そんな女の子が体と心をを開いてくれるからこそトキメクのでありましょう。
とくにパッケージ写真は、もっと人間の存在感みたいなものをだしたほうが、逆に売れる気もするけどなぁ・・・。
ニコっとかして、変な胸だか尻だか強調するいつものポーズの印象薄い写真は女の子を殺しちゃってると思うんです。

それを考えると、この業界(に限らないか?)の女の子の扱いかたというものに話は行くのですが・・・。基本的に人として見ないで商品としてみてるからじゃないのかな?



タイムリーに村岡監督のいいコメントがありました。(GASのHPより勝手に引用。すみません)
▼監督のコメント▼
村岡哲也監督

 目の前の「いい顔」にカメラを向け、記録するという事。

  自分が「表情に乏しい人生」を送ってきたせいなのか、この単純なことが監督である僕にとってのイチバン大きな喜びだったりする。だがしかし、その「いい顔」を撮影するという簡単そうな事が一筋縄ではいかないというのが現実なのだ。

   まず、現場に現れるモデルさんや男優さんたちから「いい顔」が消えてしまっている。つまりそれは、決まった役割を演じる事でその場を無難にやり過ごそうという顔が増えたという事なのだが、これはモデルさんたちの質が昔と比べて変わったという事ではないと思う。もっと単純に、その撮影の場に「いい顔」なんて求められてないのだから、そもそも持ってはこないという話なのだろう。

 「いい顔」が撮りたい、でもそれが難しい…という現実はつまり、
 「いいエロ」が撮りたい、でもそれが難しい…というのと同義なのだと思う。

 ディレクターズでの撮影に誘われ、香月藍というモデルに出会った。
彼女に撮影で何をしたいか尋ねると、遊園地か水族館でデートがしたいと真顔で答えてくる。
モデルがデートをしたいと言ってきたから、じゃあデートを撮影しましょうか、ってそれじゃあ捻り無さ過ぎで監督としては馬鹿丸出しの話なのだが、その時の僕は馬鹿でいいんじゃないかと感じていた。
何故ならそれを言う彼女が「いい顔」をしていたから。その彼女の真剣な顔は僕にこう告げていたのだ。

あたしは「デート物を撮影したい」んじゃなく「デートがしたい」んだ、と!

 香月藍、このDVDの中でとても「いい顔」を見せていると思う。(引用ここまで)

むら岡

二月発売だそうです。
http://www.gas-web.com/J/Index-j.htm

僕も、女の子のいい表情が撮りたいから、この仕事をしているのかもしれません。


  1. 2008/01/26(土) 01:13:02|
  2. AVを作ること
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「好きだ、」という映画。

すきだ

石川 寛監督の「好きだ、」という映画をみる。
この監督の「tokyo sora」も好きだが、この映画も好き。
特にびっくりしたのは「好きだ、」は驚くほどにロケ場所が少ない。少ないというか、意図的に同じ場所、同じポジションでの反復撮影が多く、一見すると二日撮りのAVドラマの画の少なさに驚くほど似ている。
まるで二日で撮ったかのような画面、でも、その芝居は(芝居からこぼれてくる何かは)、長く撮影されたなかのほんの一部だということが分かる。
ある感情が現れるまで延々と回すという演出で立ち上がった何か、が映っている。

これを写し撮れないまま終わるのがAVだ。
僕は、これをできずにいる。

演技で作られた感情は所詮、演技であり、
僕らAV者はセックスという、非常に感情的なものを扱っているにも関わらず、セックスを安気な演技で見せようとしてしまう。だから体位の見本帳みたいなスポーツ中継みたいなAVが出来上がる。
だが、まれに撮影者と女優との感情的な何かが写ってしまう場合があって、僕はそこにドキドキする。映画を超える一瞬を見る気がする。

そういう瞬間は、ほんとうにまれだけど。

でもねAVで、この映画超えたいねって思ったりもします。夢として・・・。
  1. 2008/01/22(火) 01:39:31|
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AVとは何か?

AVとは消耗品なのだと気づいた。

映像媒体や映画よりも風俗に近い。
射精するためのセックス幻想ツール。射精が終わったら、容赦なく「汚い」として捨てられるAVに表現なり主張なり持ち込んでも仕方がない(むしろ邪魔)。
映画で感動したりすることを、おおっぴらに語ることはあっても、風俗やAVでいかに気持ちよく射精できたか、は語られることがない。
男性には射精に対する暗黙の嫌悪感がある。
だから射精後に風俗嬢に嫌気がさしたり平気でする。
AVも同じで、AVで抜いておきながら、AVもAV女優も関係者も汚い、のだ。

AVに仮に傑作というものがあったとしても、それを発見することができない。店先から消えたAVは廃棄され手に入らない。まさに風俗店っぽい。

でもそんな消耗品に頼まれもしない表現やら主張やらを入れたがるつくり手と、お客と、AVは二重の自己満足で出来ているようだ。


人間は、これほどまでに創作、表現したい生き物なのか?
ならAVなんか辞めて自主映画でも撮れば日本映画界は面白くなりそうなのに・・・。

自主制作でもなんでもいいから、映画とAVの間を埋める作品群を紹介する場があればいいのかなぁ?
AVのスタイルで撮られたボカシが入らない程度の(入ってもいいけど)裸やセックスやウンチやげろのある低予算映画が一杯できてもいいんじゃないかな。

普通の人々って映画みたいに端整に上品にセックスもウンチもしません、って生きていないし、近所の可愛い女の子も、通学中のスクールガールもフェラして顔射されたり3Pやら4Pやらしてたりしてるのです。普通に。
でもAVほどではない。
そういう女の子のリアルって綺麗綺麗の映画では語れないし、エロに対する感覚が麻痺してるAVでも描けない(というかAVってセックスの技を競い合うスポーツ映像みたいで、全くリアルとはかけ離れている。純粋なAVを目指しすぎて一般の感覚から遊離しちゃってる)。
ラーメン食ったり、ウンコしたり、生理でぐったりしたり、なんとなくセックスしたくて知らない人とセックスしたり、恋人とはエロエロなセックスしてたり、セックスしすぎて翌日腰が痛かったり、でも表面は清楚で上品な女の子だったりする女の子たちのリアルな人生を描けるのは、そういう映画とAVの真ん中のカジュアルな映画のような気がします。

平野さんや松尾さんのAVって、女の子が見ても喜ぶんじゃなかろうか?
見れる場を作ってあげること、有名な人がきちんとした場所で紹介してあげれば売れると思うんだけどなぁ。福山雅治さんとか(AV好きって公表してるらしいし、彼が言うぶんには女の子は否定的ではない。)
そういうプチエロメーカー、誰か作りましょうよ。お金ください・・・。
  1. 2008/01/19(土) 11:04:08|
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AVをつくるということ。11

普通に出回ってる情報だから転載してもいいのかな?
以前、流出したAVの制作費内訳。
http://www.zakzak.co.jp/top/2007_03/t2007030922.html


高いとは聞いていたけどパッケージ印刷代ってなんでこんなに高いの?
これならネットでダウンロード販売したほうが安くできるし、お客さんだって助かるだろうと思うが。
いずれにしてもAV高すぎ。
一本1500円くらいなら買えるだろうけど、3000~4000円は高いと思う。
あるいは、通販で買うなら簡易パッケージにして安い印刷で、定価を下げるとか?

4000円の価値が本当にあるのかもわからないしね。


あと女優さんのギャラって、仕事の割りに安いですよね。
一日で手にするお金としては大きいけど、お金が貯まるほどには多くない。搾取労働です。
もともとメンタル系の女の子が集まりやすい業界だけど、現場でさらに病んでいく場合もあって辛いです。
そういう僕もこの世界でしか食えないし、まともに女の子と接することができないから、僕も病んでますけど・・・。
  1. 2008/01/17(木) 00:37:39|
  2. AVを作ること
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AVを作るということ11

僕の好きな2ちゃんねるの掲示板の一つ。
「AVのカメラアングルに物申す」
http://pie.bbspink.com/test/read.cgi/avideo/1197139824/


すごく勉強になります。
AVのカメラアングルなんて個人の趣味志向だから、杓子定規にならなくても・・・というふうな緩い感覚で撮影してはいかん、とあらためて思います。

例えば、
(以下勝手に引用しました。すみません。
・・・バックシーンは
背景を水平に映す
仰ぎやうつむきアングルは少しでよい
メインアングルは真横から
女優の足が地に着いている事がきちんと確認できる
女優を真横から頭から足のつま先まで画に収める
かつピストン運動が分かるように男優のケツの動き幅まで収める
女優の喘ぎ顔が良く見えるように髪形を考える
おっぱいのプルプルを邪魔するものは神であっても許されない
男優の両手は女優の腰を持ち、体を引くと同時に腰を前へ激しくピストン
立ちバックは胸を張る状態で両手は壁に着く、もしくは何かにしがみ付く
ノーマルバックは頭を起こすのが良く、膝と手のひらを地面に着く4点ポジション
地に着いている膝よりもややケツを後ろにし、腰から背中は反り返らせる
このぐらいなら合格です ・・・)

などなど。
本当に申しわけありません。という感じです。
僕は、そんなこと考えて撮ったことないです。だから僕が撮る絡みはいやらしくならなかったのでしょう。
カメラアングル、カメラ移動には必然的な理由があるべきであり「なんとなく」設定されるものであってはならない。
特に、ここの掲示板で問題になっているのが「斜めアングル」。絡み中(に限らないけど)体位をフレームに納めるために対角線に体を入れるあれです。便利だからつい僕も普通にやっていますが、指摘されるのは「TVをみている人は水平にTVを置いて見ているのだから斜めアングルになると、画面の中のリアリティが喪失してしまう。もしかしたら格好いいのかもしれないが、感情移入を妨げる」・・・確かにそうです。
実相寺昭雄監督の映像で傾いた画面がありますが、「日常の風景が違和感をもってあらわれるような場面」のような気がします。

では、何故僕は絡みの撮影中に斜めアングルを使うのだろう?
それは、その場面で何をとらなければならないかが分かってない(男優の腰の動きなのか、女の子の顔なのか、あるいは滴る汗なのか)ので、体位の移り代わりを追いかけてるだけだから?この体位なら、このベストアングル!っていう思想がないのです。失格だと思います。

それは僕が普段からセックスに対して無知であるからかもしれません。
なら、絡みは他の監督に撮ってもらったほうがいいのかもしれません。

映画だってアクション監督がいたり特撮監督がいたりするではないですか。別に監督は一人でなくてもいいんだよなぁ。
まあいずれにしても、セックスを見せるべきAVでセックスがちゃんと撮れてないなんてのは問題ですね。本当に申し訳ないはなしです。

次回作がもしあれば、改善します。
  1. 2008/01/16(水) 21:42:04|
  2. AVを作ること
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AV脳。

2チャンネルのイメージフォーラム(映像研究所・専門学校みたいなもの)掲示板を読んでみた。
僕はイメフォに通っていた時期があります。
「イメフォではエログロ・チンコマンコ・げろ・ウンコ・出血のオンパレードであり、そういうのを撮ると講師が大喜びする」「内省的、露悪的で気持ち悪い映画が好まれ、受講生の女の子はとにかく脱ぎまくる」という指摘?批判?が多数書き込まれておりました。
確かにイメフォは劇映画の学校ではなく、実験映画、詩的映画の製作学校?なので、いかんせんそういうキワモノ映画が溢れかえることになります。
そこに通っているうちに「そういうものが良い映画だ」と思うような脳になるのです。
現に僕も全裸で白昼に渋谷のドブ河で這い回るような映画を作りました。
僕のなかではその表現がベストだったのだけど、第三者から見たら単なるキモイ映画でしかないわけです。でも、その学校では可愛い女の子に「感動しました!!!」とか言われながら握手を求められたりしたわけです。
・・・・・・・これをイメフォ脳、と呼ぶことにします。

人間は、思った以上に環境によって考え方、価値観が変わっていくものなのでしょう。

ではAV脳っていうものはあるのか?
AV村のみで生活していると暗黙の了解というか業界の常識というものが自分の価値観を変えてしまう部分があります。いろいろあるので、これからゆっくり考えてみるつもりですが、ひとつには、モデルの女の子に対して「お金を払っているんだから言われたことは何でもやれよ」と平気で言えてしまう感覚の麻痺。セックスに対する麻痺(より過剰な方向に行くしかない麻痺)。売れるから、刺激的だから、という理由でどんなキワモノ的行為も犯罪も容認でき、より異常な内容を考案した監督が優秀で、その異常な要求を見事にこなす女優こそがプロである。よって、第三者的には異常としか見えないような撮影を嬉々としてこなしている集団が発生する。
AVには広範に伝わる評価がない。
よって自分が作っているもの、参加しているものが何なのかを考えなくても仕事をしていける。
「作品」が面白ければ、そこに参加しているモデルや男優やスタッフやお客が傷ついてもたいしたことではないのだ。
あるいは「お金になるんだから」なんとなく売れ線のものを、そこそここなして撮って名前も誰もださずにやっとけばいいじゃん、的な意識。
女の子は限りなく機械に近くなるし、撮り方、セックスの体位、段取り、なども機械的になるし、エロいわけがないと思うのだが・・・。
「みんながまだやってないような過激で危険な撮影をするのが意欲的で格好いい」というふうな頭になってしまうのは、それこそ危険である。
で、事件になるわけです。

こういうAV脳に侵されていくのです。

職場だけでなく、家族や、友人、大きくは宗教や国家にいたるまで人間は思いのほか環境に影響されてますね。
自分の価値観って、常に洗っておかないとまずいみたいです。
自分の価値観と違う、ということだけで人は殺し合いをするからです。

怖いねえ。
  1. 2008/01/16(水) 01:38:01|
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AVをつくるということ。10


http://jp.youtube.com/watch?v=doc1eqstMQQ

sigur ros というバンドのPV。
音も好きだし、僕はこういうものが作りたかったんだと思う。

http://jp.youtube.com/watch?v=P0AZIFmkogY&feature=related

これもsigur ros。
この画。子供の表情。
僕は技術がないのでこういう画がどうやったら撮れるのかわからないけど、こういう画が撮れたらなぁ・・・。
別にこのタッチでAV撮ってもいいでしょ(笑)

  1. 2008/01/13(日) 04:17:27|
  2. AVを作ること
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いかす動画。


http://jp.youtube.com/watch?v=e8lvep0-Ii0

オーストラリアの反捕鯨活動に対するPV。


http://jp.youtube.com/watch?v=7kUO_fjsrjk

松江監督PV。


http://jp.youtube.com/watch?v=aFg7sVW7eQI

カンパニー松尾監督PV。


うん。別にAVで好きなことが出来ないならAVでなくていいのだ。
  1. 2008/01/09(水) 00:42:34|
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AVを作るという事9

D-1の作品群をよく考えてみたら、監督も女優もプロ意識が非常に高いってことなんですね。
おそらくAV的に必要なもの、AV的な見せ場?、そういうものを凄く考えて「ザ・AV」とでも言う感じのものを一丸となって作っているのでしょうか?
そのチームワーク、気合、努力、才能は素晴らしいと思います。
思いますが、このラインナップの中で、僕が「抜きたい」と思うような作品(勃起するということも含めて)が一本もないのでした。僕の嗜好が変わっているのか?これらの作品の嗜好が変わっているのか?それぞれ「AV的なる要素」が過剰なまでに入っているのに引いてしまうのは何ででしょうか?
もしかしてプロとして完全なAVを目指しすぎているのではないかと思ってみます。
ハリウッドのSFX映画?とか全編見せ場。飽きないように興奮を誘うようなアクションがこれでもか!というくらいに出てきます。無駄な要素、反エンターテイメント的な要素は一切入れない。見ていると「うわー、すげー」と思うのですが、何にも心に残らない。プロとして完璧な仕事であればあるほど無個性な作品になっていく。
その完璧を目指した努力は何のために行われたのだろう?
それに近いものを感じるのです。
アクションで「みんなが見たがりそうな場面」は、大体「みんな見飽きたどこかで見た場面」だったりするのではないのかしらん?


話は変わって、僕がAVを撮り始めてからの自分の作品?を考えてみたら、まず間違いなくどんどん詰まらなくなってる。デビュー作が最高で、そのあとはドンドンパワーダウンしている。
AV的な台本を書き、AV的に撮影し、AV的な絡みを撮り・・・。いつのまにか「無個性なAV」に近づいています。(勿論、AVは自主映画ではない!商品を作りなさい、売れるものを作りなさい、このままだと君は仕事がないよと言われて、意図してAV的なものを撮ろうとしてきた歴史ではありますが。)結果、どーでもいいような普通のAVじゃん、みたいなものを最近は作ってます。
昔撮ったヤツのほうが絶対面白いと思うもん。
そういう状況のせいだけでなく僕自身が物を作ることに対してスポイルされてしまっているのもあるでしょうが。すくなくとも映画を撮ってやるぜ!みたいな気合はないですね。なくなってます。
まあ、こんなもんか?って具合で仕上げてる。



で、HMJMの作品とかサンプル見たら、面白そうなんですよ。好きに作ってる感じがあるし、AVの枠に囚われてないし。第一、凄く楽しそうに撮ってるのがわかる。撮ること、作ること、女の子の心に近づくこと、凄く楽しそうなんです。
こんなの見てたら、僕の撮ってるものなんて馬鹿みたいですよ。中途半端で無難な台本を段取りよく順番に撮って、すばらしい瞬間もなく、映画の神さまが微笑む瞬間もなく、無難なエロと思われる絡みを撮っておしまい。
仕上がったものには結果、魂が入っていない。本当の気持ちや苛立ちや欲望や悲しみが映っていない、何も伝わらない。

「いいなぁ」って今日も思う僕でした。
作品って呼べるものを作りたい。映画だって撮りたい、PVだって撮りたい、ついでにモデルの女の子と道ならぬ恋とかしたい、なんかみんな楽しそうなんだもん(笑)


自分の作品をプロデュースする能力、仕事を定期的に見つける能力、自分が面白いと思ったものを相手に認めさせる能力、がないと結局「撮れない監督」のまま終わるのだろう。

あと、自分が弱くなった部分がある。
仁科さやかの新作を撮った。
ある、まあかなり微妙な現場で「あと一歩モデルに対して踏み込む」ことができなかった。
終わってみて昨日今日くらいになって「なんであの時、八メ撮りを避けちゃったんだろう・・・」って思った。もしかしたら現場が破綻したかもしれない。でもそこからしか撮れないものがあったのではなかったか?と悔やんでいます。例え台本が破壊されても、そこに映ってくるものこそがAVだったのではなかったか?と思うのです。

僕は面白いAVを作る入り口にいたのだけれど、作品を(自分の生活を)守るほうを選んでしまったのです。それがHMJMとの違い。

「大人になった」という言い方があるけれど、大人にならないで作ったAVのほうが面白いはずだと思う。

そして、これが僕の今の限界とジレンマ。大人にならざるをえない部分。

非道と呼ばれても、モデルと駆け落ちするくらいできたらね。ハメ撮りもしたかったし(笑)
  1. 2008/01/08(火) 02:14:28|
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AVをつくるということ8.

AV批評について。
この方の書かれていることは、共感します。
http://d.hatena.ne.jp/mamiamamiya/20060511


だって、今D-1グランプリのそれぞれの作品のレビューが読みたくて探したけど、どこにもないんだもん。
そもそもD-1グランプリなるイベントすら僕は知りませんでした。AV村は狭いようで、意外とつながりのない会社とは一切付き合いがないです。
今日このイベントの存在を知ったので、どんな作品があるのか調べてみたら、結構頑張って撮ってる作品群で、現場レポートとか読んでも夜中や朝までの撮影が二日だの三日だのという大変な力の入れようを感じました。お金もかかっているようだし、美術、スタジオ、照明など「がんばってるなぁ」という出来だと思います。
このレポートやスチールを見ていると普段僕が撮っているものがいかにいい加減でお客さん無視の商品であるかと改めて反省しました。いいものを作ろうという気概のようなものを感じました。

で、これらの感想ってどうなのよ?って探してみたんですが、ほとんどない。
これだけのイベントだし、力の入った作品だしなにか感想がきちんとあるだろう、と思ってみたけどない。D-1イベントの存在そのものについての意見や感想なら死ぬほどあるのに肝心の作品に対するフォローがない。感想文とか書く文化ってまだ日本にもあると思うのだけど、誰も見てないのかもしれない。

でも、このくらい力を入れてどんなAVも作られればAVってもっと面白くなると思う。
面白いものだと認められると思う。


で、僕は、現場レポートを読んで「物凄く面白そう」って思い、僕にはAVは無理だ、と確信しました。それは多くの作品が「女優さんたちにかなり一般論的に言うと犯罪並な陵辱と暴力を加え、酷いように見えるが、M性に目覚めた女優たちが最後には、心から女性的なエクスタシーと開放にいたり涙を流すハッピーエンド」という展開だったからです。女優さんも「撮影で感動した」とかいって泣いてるし。
ここまでされて快感を感じる女心なんて分からん僕がAVなんかやっちゃいかん!っと思ったのですが・・・・・・・・・、
でも、これは撮影現場だけでこの暴力が終わる、っていう前提で演じているからこそ女優も役者としてM性に陶酔することができるからだと思う。実際に家庭なんかであんな暴力や陵辱があったら性的に高揚できるわけがないです。
もしリアルにそういう暴力の中で陶酔していく女性がいるならば、乖離(人格分裂)を起こしているのではないだろうか?

それに、この睡眠もまともにとれない過酷な体育会的な!現場でトランス状態に入ってしまうこともあります。宗教の洗脳みたいに。もともとメンヘル傾向の女の子が多い業界なので、それで「本来のM性に目覚め、より激しい快感に陶酔」というよりも、過去の心の傷を再演したり、共同作業の中で自分の必要性に感動したり、馬鹿になって感じることを求められてるからやってみたって感じがするんです。それを「今日の撮影は女の性の究極の姿が撮れた」としているような気もしました。
でも、思うんですが、ここには「責めれば責めるほど、女は嫌がってても感じていく。ボロボロになるまで痛めつけたほうが女は感じる。よだれ流しながら陶酔して、男のちんこをねだっている女が本質なんだ。馬鹿な女が可愛いんだ」っていう男にとって都合のいいイメージの押し付けに思うのですがどうでしょう?
ファンタジーとしてはありですが・・・。

先も書きましたが、撮影現場では暴力を快感として転化できるから女の人は感じますが、これを見た馬鹿な男が「やっぱり女はこうしてやれば喜ぶんだ」とか思って実際にやったら困ると思うんですが・・・。


こういう過剰な陵辱プレイに快感を感じる女性もいるでしょうけど、かなり心を病んでいると思えます。そしてこういう撮影がこの病から女性を解放できるとは、僕には思えないです。

とはいえ本編は見てないので、想像ですので間違ってたらすみません。
女をわかってないといわれればそうかも知れません。失礼しました。
  1. 2008/01/04(金) 03:43:54|
  2. AVを作ること
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AVをつくるということ。7、欲望は深い。

一度AVをやめたときに、また映像に関われるとは思っていなかった。それがAVであれ「仕事して生活費を稼ぐという名目つきで」映像を作ったり考えたりすることは楽しかった。
五年のブランクの間に自分が変わったもの、変わらなかった部分、洗い出ししながら形にして、人に見てもらえるというのは楽しいものでした。
本当に匿名的な監督として「人妻モデルのように」ひっそりと、かつシンプルにバイトしようと思っていたのだけど、欲が出た。(たまたまDIRECTORSっていう監督売りのレーベルで仕事を始めてしまったからだが。でも、これでなければ仕事もなかった、という意味では必然だったのか)作品を作りたかったし、認められる作品で褒められたかった。だからバイトの領分を越えていってしまった。
内容も以前の「笠木忍」の関係性を超えるものを撮りたくなったし(だから、セクハラに意欲的になったり・・・)、今のAVの時流でないものをゴリ押しして撮ったりということになった。

いつしかセクハラそのものが目的化する部分もあって、やばいという意識もありました。
(ちょっと脱線ですが、AVは映画とちがって女の子が実際にセックスをするということで生な反応を見せるという表現であるために、その反応を男優との関係性に任せず、自分でカメラ目線で撮りたい、という考えになるのは当然だと思うんです。AVの特権というか映画との差別化ってそこだと思うんです。お客の本当に見たいものは、女の子が自分を見つめてくれる擬似恋愛だとも思ってますし。でも、自分が男優すると楽しいので、それを楽しみに撮影するようになってしまう。作品の中に必要だから、セクハラするというより、それがしたくて作品を作っていこうとする転倒がおきてしまう。だから自分で上手くバランスがとれる監督でないと手をだすのは危険かもしれません)
台本も次第に「大作志向」化していき、観念的になり・・・・・・・・・・、

やっぱり映画がやりたかったんです、なんて、「なんて強欲」。

30歳でAVに入ってきて、40歳になって思うことがこれっていうのは悲しい話です。



そのような部分をさして「あなたは偽善的で自分勝手な寄生虫である」と僕は言われるのでしょうか。
  1. 2008/01/03(木) 17:09:45|
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AVをつくるということ6.全てはエロのために。

そこで、考えるのは結局、僕のもともとの志向じたいがAV向きではないということ。
人のAVをみると、ロケーション撮影するにしても、衣装やセット、芝居にしてもエロを表現するために撮られているみたいなのです。
僕のは絡みシーンは別として(そうでもないか?)エロを表現しようとしてないし、ドラマ部分においてはエロを否定してさえいる。僕がグッとくる部分はエロチックな部分だけでないし、エロのために理詰めでドラマも撮らないから、客観的には酷くひいたもの(気取ったもの?)に見えるのかもしれない。
AVを真面目に撮っていらっしゃる方々からすれば「真面目にやれ!」といわれそうです。
AVは「全てはエロのために」でなくてはならない。

ならば、やっぱりそこに浮かびあがるのは「映画をやりたかったけど、才能がなくて出来なかったから仕方なくAVをやってるけど、映画にも未練があるのよね」っていう中途半端な商品なのだろう。

だってAVは嫌いじゃないけど、AVを撮りたいわけじゃないんだもん。(セクハラできるのは楽しいけど)
それが多分、僕が仕事がない理由なんだろうなぁ。

で、どうするか?だ。
さて。
  1. 2008/01/03(木) 02:47:41|
  2. AVを作ること
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AVをつくるということ5.

そんなときに、タイミング良く「銀河鉄道の夜」を見た。
杉井ギサブロー監督。
演出ってここまで徹底してやらないと駄目なんだって思い知らされる。美術、キャラクター、音響、音楽・・・。僕が普段やっているAV撮影や編集なんか屁でしかない。いきあたりばったりで何となく格好よく撮れた画をつなげて、説明不足のとこにテロップで説明して「なんとなーーーく」そんな感じに仕上げてるだけだもん。僕のは。

イメフォ時代から撮り方が一切変わってないのに気がつくと情けない。簡単なコンテを書くこともあるけど、最近はそれもしない。物語を決まった撮りかたに当てはめて順番にその画を撮ってるだけです。はい。
だから僕は才能がないのだと思うけど。

確かに映像はどう繋げてもつながるし、語り方に決まりはないかもしれないけど、アニメを見るときには、きちんとしたコンテこそ映画表現だと思う。実写だと演技の面白さで意外な面白さとかあったりして乱暴につないでもいけなくない。

でも思うのは、実写でコンテ切って画を撮っていくと、予定を消化していく感じになって実に面白くない。役者も仕事モードになったりする。だから引きの画だけ決めて撮り始めてしまうわけだが、そうすると編集の時に必ず画が足りなくなる。思った画が撮れていない・・・となる。
その辺が今のジレンマ。ある意味僕の限界。

僕の悪い部分で、女優に気に入られたいとか、早めに切り上げて女優と二人っきりになってフェラでもしてもらおうとか、そういうヨコシマな考えをもったりするので、演技が出来ないなら出来ないなりの撮りかたでいいや、とか何回も繰り返して撮影することで女優の機嫌が悪くなるのが嫌だ、とか思いながら撮ってるからそうなる部分もあります。
もっと演出家としては灰皿投げるくらいのプロ意識を持たなければ・・・・・・・・・とは思います。

よく言えばライブ感のある撮影、悪く言えば超適当ということですね。
この女優にたいしてセクハラをするっていうのは、復帰してから積極的にするようになったのだけど、「この女とやりたい!」と思いながら、その気持ちを前面に出していくくらいのほうがAVっぽくなると思ったからです。どうしてもエロを拒否したものを撮ってしまう傾向があったから。

確かに以前みたいに手の届かない高貴なものとして女性を見る視点から、エロ親父的なセクハラ視線に変化はしたのですが、今度はエロ優先のいい加減さ、とでもいう感じになってきてます。ちょっと行きすぎみたいですね。

そんなだから、今こうしてきちんと作られた映画を見ると、はっとするし、きちんとコンテの出来ている映画の表現力に打ちのめされたわけです。
  1. 2008/01/03(木) 01:40:32|
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AVを作るということ。4、脱線してガンダムのこと。

たまたまアニマックスでガンダムの劇場版マラソンのようなものが大晦日にあったので全部ではないのですが見ておりました。
面白い!
凄い!
ファーストガンダムのあの芝居、AVにおけるガンダムを・・・なんて書いてしまったけど、これは僕には絶対作れません。すみませんでした。
40歳になってから見直すガンダムの凄さ。
これだけのものを作ってたんだねぇ。当時のTVアニメは。こりゃ凄いわ。
で、ドラマ寄りになってアクションがなおざりになるわけでもなく、きちんと娯楽を考えてて、おそれいります。
で、Zガンダム。
今回初めて三部まで見たんだけど、「こう来るかー!」というまとめ方で凄かった。
富野さんのこの凄さ、感動いたしました。さすがにコロニーなり隕石なりを地上にぶつけようなんて考えるひとだけのことはあって、凄い強さを感じました。
かっこいい!富野さん。
  1. 2008/01/01(火) 02:01:02|
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