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キノプラ太-矢野の仕事が無いAV監督日記。

AV監督、キノプラ太-矢野の仕事覚え書き。

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リング・オブ・ガンダム

先ごろ、お台場辺りで公開されたプロモーション映像がGyaoで観れた。
うん。これこそ富野節、由緒正しい富野さんのガンダムを感じます。これはもう長編映画として作っていただくしかないのではないでしょうか。
http://player.gyao.yahoo.co.jp/wmp/?cp_id=00762&program_id=v07933&video_id=v0793300000000524530
CGはいまになってもまだパースの取り方や空気遠近法がうまくなくて、ショボくみえてしまいますが、ラストのせりふにあるように「アムロの遺産をうまく人類に役立てていくことができる。絶望さえしなければ」(うろ覚え)、・・・・「ガンダム」という遺産を使ってまた新たな切り口とメッセージを創作する富野監督に感動します。
そしてなんて前向きなメッセージ。
「ガンダム」が作者の手を離れて商業主義にまみれていって、深く絶望した監督がなお、生きること、くだらない社会、そんなものに絶望することなく、「ガンダム」という作品が培ってきた歴史文化を未来に役立てていこうとする前向きさ。
元気を与えてくれます。さすが富野さん。
早く完成品が観たい。
  1. 2009/09/16(水) 23:32:18|
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忘却の旋律

もう何年も前になるが「忘却の旋律」というTVアニメーションシリーズがあった。
全くヒットしていないので誰も知らないかもしれないけれど、僕は好きなのである。
いまだに時に思い出してしまう。ストーリーや場面をということではなく、その作品のなかにある「気分、後味の悪さ」のようなもの。
押井守が言うように「観ているときに楽しいだけの映画は駄作。観終わったあとに観ている自分や社会のことに考えを誘導していける映画がいい」という意味で、このアニメは傑作だと思う。

wikiから引用すると
本作品は、既存のアニメ作品とは一線を画した演出手法が特徴。終始かなり特殊な、「シュール」「不条理」ともいえる世界観に貫かれて物語が語られる。

演出方法に多彩な暗喩や風刺を用いているため、容易に演出意図を汲み取ることが難しく、視聴者側にある程度の読解力を求めてくるところがあり、近年のアニメ作品としては難解な部類に属する。その上、本作品では、意味不明なバンクシーンや、心理描写なのか幻覚なのかがよく分からないシーンなどが繰り返し挿入されて、作品が極めて不条理であるという印象を付与することに貢献している。

本作品のスタッフは同じく不条理さでならした『少女革命ウテナ』のスタッフと一部が被っており、その関連で本作品を『ウテナ』の後継であるとする見方もある。(『ウテナ』との類似点は、一見荒唐無稽に見える設定と演出の中に、現代社会への鋭い皮肉、自閉からの脱出、真実の成長の意味などの哲学的テーマが多数織り込まれているところにも見受けられる。そういった部分は、ある意味、異色であると同時に、意欲作であるともいえるだろう)

また、独特の困難さの理由は、演出方法のほかにも、メロスの戦士のほか、モンスターに支配され彼らに服従せざるを得ない大衆や、自らのエゴのためモンスターに荷担する人間たち「エージェント」など多彩なキャラクターたちの立ち位置にもある。様々な立場の人間達が入り混じる、複雑な人間模様が形成されているため、作品世界全体の理解には、かなりの話数の視聴を要する。

ただ、テーマは基本的には「学園」という場を出た若者がぶつかる社会との軋轢、それを通じた少年の成長を描いており、それを理解したうえで視聴することで、作品の難解さはいくぶん緩和することが可能である。

登場人物(特に敵方)のネーミングやデザインなどは、初見ではジョーク・冗談の類かとも思われる奇妙なもので埋め尽くされている。また、彼らの台詞回しは駄洒落や陳腐なギャグの類である場合が多い。だが、基本的にはそれらは何かしらの暗喩であり、直接的でないテーマの表現である。これはある意味で、アングラ演劇的な手法だともいえよう。

また、これは既存作品とは異なる奇抜さで注目を集めると同時に、あえて印象を記号化して意味を剥奪することで風刺・暗喩的意味を際立たせ、「制作者の隠れた意図」に目を向けやすくするための試みでもあろう。

例 #1 描き割りのような背景=主人公が感じている学園生活の味気なさ、薄っぺらさ、作り物のような現実感のなさの象徴

例 #1 モンスター・ホルが生贄に要求する子供(「ギリシャ神話」におけるミノタウロスのエピソードがモチーフ)=大人社会のエゴのために犠牲にされる純真さ

ただ、話の合間に無意味とも思える扇情的なシーンが挟まることが多く、この傾向は回が進むにつれて強くなっていった(もちろん、放映当時の深夜の放送枠ではこの扇情的なシーンの存在ゆえに本作が注目を集めたことは事実であり、制作側も、おそらくそれを計算したものと思われる。真実の意図は、おそらく扇情的なシーンで好事家の視聴者を引き込み、じょじょに誘導して作品のテーマ自体に興味を持たせることであったろう)。だが、これは結果として作品のテーマからは遊離したナンセンスな場面が大きくクローズアップされ、本筋のテーマを見失わせることにもなり、一部の視聴者の間では「話の流れが理解できない」「手抜きでは?」といったような批判的なコメントも多く見受けられた。

商業的にはほぼ失敗に終わっており、DVDに収録予定だった付録の一部が中止になるなど、問題点も残した。 娯楽を主とするアニメ作品であえて難解な演出技法を用い、社会的かつシリアスなテーマを語ることの意義・是非はともかく、独自性という意味では、他の雑多な作品群からは大きくかけ離れた位置にある作品であって、一部の視聴者には強く支持された。


世界観 [編集]
この作品の特異な部分として世界観がある。 「20世紀戦争に人間が敗れ世界はモンスターに支配された」事がナレーションで繰り返されるが、劇中モンスターは政治的な活動は行わず、ただ子供の生け贄を「税」として要求するだけであり、その一方ではモンスターにより環境破壊や国家間の戦争が管理されているらしい。

そして一般市民の普段の生活は現代の人間と変わらず、子供がモンスターの生け贄になっていることにさえ目をつぶれば平穏な生活を送る事が可能であり、そのため殆どの人間はモンスターの支配を黙認し、むしろ積極的に支持してモンスターに取り入ろうとする人間も多い (劇中、戦士以外の人間がモンスターの力に触れると石や人形になってしまうのは、モンスターが「社会の不条理」をカリカチュアした存在であり「一般人は社会の不条理を前にすれば石や人形も同じ」ということを暗喩していると思われる)。

従ってメロスの戦士が戦っているのは、表面的にはモンスターやモンスターユニオンのエージェントであるが、実際には「世界の構造そのもの」となる。故に劇中ではボッカ達の戦いに支持は殆ど無く、一般人の反応は白夜岬編のように厄介者扱いか、第9話の老人のように戦士を「社会に受け入れられなかった負け犬が格好をつけているだけ」と蔑むものである。

以上、長々と引用したが、僕の感想も大体同じである。
あまりにも馬鹿馬鹿しい無邪気な欲望に支配された世界に立ち向かうことの徒労。あまりにも間単に支配者におもねることで楽チンに生きようとする人々の中で、自分が戦うことの意味や自分の存在の意味さえ無意味に思えてしまう不毛さ。
でもその「システム」のなかで間違いなく生贄になる人々が生まれていて、わかっているがどうにもならない絶望。
悪が思想もなく子供のような無邪気さと気まぐれでいることは、それと戦うものも次の瞬間には悪になったしまうかもしれない。

ヒットしなかった理由は簡単で以上のような理由で見ていて楽しくないからであり、いやーな感じが付きまとうからである。
あまり考えると自己否定につながるからだ。
本質をえぐるような作品がすばらしいとはいいながら、あまりにも鏡のように映し出されてしまっては、やっぱりこまるのだ。人生は苦しみの連続であり、そんな地獄をあらためてみせつけられたくはない。
だから、映像は多少は夢がなければならない、ということになるのだけどね。
でも、僕はこの作品が大好きだし、こうした作品が作りたいと思う。




  1. 2009/09/12(土) 10:14:42|
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