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キノプラ太-矢野の仕事が無いAV監督日記。

AV監督、キノプラ太-矢野の仕事覚え書き。

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AVを作るということ。PerfumeのPV

Perfumeというアイドル?グループがいらっしゃるらしく、僕はよく知らないのですが、PVの「マカロニ」というのが実にカッコイイ。
http://www.youtube.com/watch?v=pn06fQZz5Xw
8mmフィルムでの撮影もさることながら、可愛い。すごーーく可愛く撮れてる。ほんとに恋愛の初期衝動っぽいというか、憧れし女の子像みたいなものが撮れてる。上手い。
前半長い感じもするけど、後半の女の子が走るくだりは、もう抜群。すげー!
僕らがAVでも似たようなことをするけど、これは撮れない。こんなにいいのは撮れない。

でも、こういう画を狙うような撮影をさせてもらえるAVをなかなか撮らしてもらえない部分もあるけど・・。
でも、ああ撮ってみたい!女の子と一日うろつきながら8mmでばしゃばしゃ撮りたい。
僕にもこのくらい撮れるはずだ!撮れると思う・・・。無理かな。
このカメラマンと仕事がしたい!

誰かPVの仕事ください。お願いします。頑張ります。



で、このPVをもとにして誰かが、音楽を勝手に「リリィシュシュ」に変えて、編集もそれ風にいじって作ったものが、これ。

音楽を変えるだけで、これだけ変わる。という見本。
僕はこっちのほうが断然いいと思う。シンプルで可愛い部分が際立っているから。物語性が入って引き込まれるものが出てきたから。

誰か知らないけど編集上手いです。凄いね。

  1. 2008/02/14(木) 03:19:05|
  2. AVを作ること
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AVをつくるということ13.

大阪弁というのがあって、何故かやくざっぽい怖いイメージがある。
「よう来たな!われ!」とか言われたら絶対事務所につれていかれてリンチにあいそうなイメージがある。
でも本来は単なる方言でしかないのだ。京都の「おいでやす」と同じ方言でしかない。
なのに怖いイメージがあるのは、大阪弁を使う人に怖い感じの人が多いからなのだと気づいた。
(怖い人が多い町では、自分も知らぬ間に怖い感じに感化されてしまう。それが当たり前になっていく。もともと何故大阪に怖い感じの人が多いのかは置いておくけど。)
使う人によって言葉のニュアンスは変わっていく。
科学者のよく使う詭弁「この開発の善悪は使用者の責任」というのと同じこと。
怖い人が使う言葉は怖く感じるし、優しい人が使う言葉はやさしく感じる。どちらも単なる言語でしかないのにだ。

同じようにAVだって単なる映像でしかないはずだ。映画やTvと同じ。映像言語でしかない。
が、何故AVには暗く陰惨な犯罪的なイメージが付きまとうのか?
それは、AVという映像を扱う人間がそういう人間だから、である。
セックスを扱っているからだというのは違う。セックスは所詮人間の日常的な行為でしかないし、誰でもやってることだし、本来陰惨なものではない。現に映画の中だって一杯セックスは描いてるんだもん。でも「芸術」って見られたりするじゃん。
同じものを撮っても、撮り手の価値観、思想、モラルで変わってみえるのが映像である。言葉と同じ。
だから性的に健全な?人間が作ったAVはおそらく映画と同じように見られるはずだし、犯罪的に嫌な感じに見えるAVは、そういう人間が作ったからということになる。
だからAVが一般社会において「暗く卑猥で犯罪的な唾棄すべきもの」として見られるのはそういう理由なのだと思う。

そこで、さっき書いた「感化」がでてくる。AV村で生きていると「自分の異常性」が見えなくなってしまうのだ。一般的なモラルからみてどう考えてもおかしいでしょ?っていうこともしてしまう。そしてますますAVは「暗い」ものになっていく。

もしかして、AVは性的に健康な人間しか撮ってはいかんのではないか?人殺しが趣味の監督が戦争映画撮ったら戦争賛美映画になるし、人種差別主義者が撮ったら・・・になるし。もちろん誰が何を撮ってもいいのだけど、商業映像には大衆に与える圧倒的な影響力があることを考えて、メーカーは「問題があるものは発表しない」という英断も必要なのではないか?
勿論個人でやるぶんには好きにやっていいのです。そう考えるとAVはその基準が甘すぎるのでしょう。本数がこれほど多いバブル状態で、なんでもいいから売っちゃえみたいなものが多すぎるのだと思う。
演技でないモデルの表情が見たいからといって、本気で抵抗するモデルに暴力をふるい続けるような商品が、レイプものなんだからほんとにレイプするのが一番みたいな商品が抹殺されないのはAV業界のモラルの低さであり、「AVなんていうものに関わってる人間はクズ」といわれる所以である。

人が暗いもの犯罪的なものに惹かれるのはわかる。
アニメは戦闘と破壊と殺戮を好んで描く。
しかし、最後にはそれを否定してみせるのだ。それはいけないことなのだと示すのだ。
AVは暗く変質的で犯罪のセックスを描く。だが最後まで否定しない。
AVを見た人の善悪しだいだからAVに責任はない、というのは商業映像としては詭弁だと思うのだが・・・。
  1. 2008/02/07(木) 11:19:38|
  2. AVを作ること
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AVを作るということ。仁科さやか

HIBINOさんから二月七日に発売になるそうです。

http://www.av-hibino.com/system/goods_detail.php?goodsIdx=1322
HAVD-403L.jpg


いろいろ波乱のある撮影で、撮影するのがこれほど苦しかったのは久しぶりでした。
JHVさんでデビュー直後の仁科さやかちゃんを撮影して、一年後のわれわれはどうなってしまったのでしょうか?
期せずして「Zガンダム」のような現状認知の物語になってしまい、かなり自分のレアな部分が出てしまったものです。商品としては失敗作。自分的には手傷のぶんだけ愛着があります。
チャンスがあったら見てみてください。よろしくお願いいたします。
  1. 2008/02/05(火) 00:49:00|
  2. AVを作ること
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AVの批評について。

面白いAVなるものを作るためには、批評が必要だと思う。
感想文ではなく、批評。
その作品が何故、どういった意図で作られ、どういう時代背景と政治的な環境の中で発表されたのかを、見る人間に伝える批評。それがいかに優れていて、または優れていないのか?そういう作品があることを知らしめる批評。

そんなの関係ない、見る人が自由に見ればいいじゃん!っていうのも判る。が、見るのは誰でも出来る。でも理解するためには時代や作家の意図から考えていかなければ本当は理解できない。
理解していないものの価値は発見されないし、過去の作品を越えていくこともできない。
だから、AVはいつまでも「なんとなく」消費されていくものなのだ。


で、仕方ないので自分でやろうかと思ったのだが、せっかくなのでAV史というものを一回整理してみたいと思う。AVの変遷をたどる中で、AVが得たもの損なったものを考え、AVとは何か?を一回考えなおしてみる時期なのではないだろうか?



それについて考えているときに見つけた、とてもいい文章がありましたので・・・
http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-53.html
松尾光太郎de海馬之玄関FC2版というHP。書かれたのはkabu2kaibaという方だそうです。
勝手にリンクしてすみません。
AVの歴史と日本人の性意識の変遷をわかりやすく解説されていてためになりました。今のAVが抱える問題点も指摘されています。

もう一つ。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1055611.html?check_ok=1
こちらは、AVの疑問に色んな人が答える掲示板です。こちらも勝手にリンクしてすみません。
AVの影響で、男性が女性を人間として見れなくなっているのではないか?ということに関する質問です。
様々な回答があるわけですが、おおむね「受け取る人間の価値観、モラルによる。一部のどうしようもない人間はいるが大多数は問題ない。」という感じの回答が多いようです。
詳しくは読んでみてください。

そこで僕が思ってしまったのは、では僕らつくり手はまっとうな価値観を持っているのだろうか?ということ。人間として女性と接し、描き、官能を表現しえているのか?むしろ性的異常者が現実の代償行為として作っていることはないのか?
そのような作品?が一般に流通し若い受け手の価値観を変質させている可能性はないのか?
たかがAVであれモラルは必要ではないのか?
アンチモラルが刺激的だから、という理由で犯罪的行為に過剰に進んでいくAV業界には良心はないのか?
まず、AVが社会にあたえた影響を考えたうえで、僕らはAVを作っていくべきではないのか?
アクション映画の監督が刺激を求めて実際に撮影で人殺しをするのは正しいのか?
ならAV監督はAVの刺激のためなら何をしても良いのか?

すくなくとも女の子に人格を与えない人形として、体を痛めつけるような内容のAVをつくることは、まともな神経ではないと、はっきり僕は思います。

映像が人に与える影響を考えるなら、ある程度はまともな人間が撮らなきゃならないのではないか?もしそれが天才の仕事であっても、モラルに反することはしないのが大人の責任であると思う。AVであるからこそ、必要以上にセックスに対して慎重に描く義務があると思う。



 


  1. 2008/01/31(木) 01:49:59|
  2. AVを作ること
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AVをつくるということ。12。わかりやすさについて。

AVでとにかくメーカーから求められるものは、判りやすさである。
このビデオは「**もの」であるから「**もの」でない要素は入れないでくれ、ということである。
これだけAVのジャンル分けが特化した時代であるからに、「人妻もの」「ロリもの」「陵辱もの」「痴女もの」「ドラマもの」「ドキュメントもの」等々・・・のジャンルが混ざらないようにしてくれと言われる。
そこで監督も女優も男優もプロであるので、「**もの」のジャンルに合うように仕事するのです。
で、仕上がったものは完璧に「**もの」になり、メーカーのOKを頂くのですが、「**もの」以外のなにものでもないのです。
それ以上の何か?というものが一切ない。女の子は本名の**ちゃんを捨て、芸名の**ちゃんをも捨て「名も無い**(例えば名も無いエンコウ少女)」であって、人間的な深みや複雑さは一切ない。
実に判りやすい内容である。
ハリウッドの映画がエンターテイメントのプロであるのは、明快でわかりやすい内容と表現をするからだと思う。この映画は「こういう内容」で「こういう主人公」と「こういうヒロイン」と「こういう悪役」がいて・・・とはっきり理解できなければならない。それゆえに、誰が見ても楽しめる娯楽エンターテイメントであり、プロとしての仕事なのだが、見終わったあとに全て忘れてしまうのはどうか?
観客というのは想像力がないから、判りやすくするのが務めだ、という考えは理解できるけど、判りやすくしすぎることで却って観客の想像力を無くしているのではないかしらん?

映画って印象に残る場面って「あれ、何だったの?」っていう場面が多い。
一見意味不明なショット、意味不明な表情、台詞。
それが引っかかっていて、ある日突然「ああ!あれはこういう意味だったんだ!」と気づく楽しさ。
それを排除された映画に残る印象はない。
AVも同じ。


パッケージで考えると、
特に「**もの」というイメージを明確に出すことをメーカーには要求されます。
パッケージでジャンルが判らないと売りにくいのだそうです。
で、これは「人妻もの」

rori

エプロン姿の若奥様が微笑んでいらっしゃるイメージの写真です。
まあ、ストライクゾーンです。

で、もう一個、グラフィスさんから勝手に借りましたが(すみません)
512hlux001sopl.jpg

国仲ありすちゃん可愛い(笑)・・・、っていうそんな話ではなく、
これも人妻ものです。
タイトルが付いてなければ人妻ものとはわからない。


どっちが「良い」パッケージでしょうか?
商品としたら、先のほうが正統かもしれないのですが、僕は後のパッケージに惹かれるのです。ありすちゃんが可愛いから?ここには載せませんが他のありすちゃんの写真よりいいです。つまりモデルの問題ではないです。


いわゆる「ニコパチ」写真って可愛い綺麗ですけど、「ニコパチ用」の作った笑顔だったり、典型的な構図になってしまったり、さっきの「**もの」のように完成度が上がればあがるほど、モデルの人間性が消えてしまうのではないか?と思うのです。

人間って、一面的なものではない。
笑顔があれば泣き顔もある、善人の反面、汚い部分もある。楽しい日々と同時に悲惨な事件もある。迷いもあれば、嘘も、ある。撮影まえに大食いしたり、食べ過ぎてウンコしたり、実はセックス大好きだったり、、そういう複雑な生き物だと思うのです。

後の写真には、何か心を惹かれる。
この女の子そのものに惹かれる。人妻だかなんだかより人間として気になる。
そういう意味で、この二つの人妻もの、僕が買うなら後のほうです。

だって先のほうは、目を離したら、もう表情を忘れてしまうくらい型にはめすぎだと思うもん。

人は、良くわからないものをみると想像力が膨らむものだと思う。


AVは内容だけ過剰に過剰に進めてきた。
プレイの過剰さ。
でも、こういう女の子っていう像が見えないとエロにはならないで人体実験にしか見えなくなる。
フィギュアスケートで例えるなら、今まで大技ばかり決めてきたけど、そろそろ演技力芸術点も考えたほうがよいのではないかということです。

女の子の描き方でしょうね。
人気単体なんて、「にっこり笑って、はいセックス」みたいなアイドル像を演じさせられていると思う。こういう感じでやりましょう、って言った瞬間に、本当の表情が写らなくなってしまう。

人生を背負った人間は複雑なものだし、そんな女の子が体と心をを開いてくれるからこそトキメクのでありましょう。
とくにパッケージ写真は、もっと人間の存在感みたいなものをだしたほうが、逆に売れる気もするけどなぁ・・・。
ニコっとかして、変な胸だか尻だか強調するいつものポーズの印象薄い写真は女の子を殺しちゃってると思うんです。

それを考えると、この業界(に限らないか?)の女の子の扱いかたというものに話は行くのですが・・・。基本的に人として見ないで商品としてみてるからじゃないのかな?



タイムリーに村岡監督のいいコメントがありました。(GASのHPより勝手に引用。すみません)
▼監督のコメント▼
村岡哲也監督

 目の前の「いい顔」にカメラを向け、記録するという事。

  自分が「表情に乏しい人生」を送ってきたせいなのか、この単純なことが監督である僕にとってのイチバン大きな喜びだったりする。だがしかし、その「いい顔」を撮影するという簡単そうな事が一筋縄ではいかないというのが現実なのだ。

   まず、現場に現れるモデルさんや男優さんたちから「いい顔」が消えてしまっている。つまりそれは、決まった役割を演じる事でその場を無難にやり過ごそうという顔が増えたという事なのだが、これはモデルさんたちの質が昔と比べて変わったという事ではないと思う。もっと単純に、その撮影の場に「いい顔」なんて求められてないのだから、そもそも持ってはこないという話なのだろう。

 「いい顔」が撮りたい、でもそれが難しい…という現実はつまり、
 「いいエロ」が撮りたい、でもそれが難しい…というのと同義なのだと思う。

 ディレクターズでの撮影に誘われ、香月藍というモデルに出会った。
彼女に撮影で何をしたいか尋ねると、遊園地か水族館でデートがしたいと真顔で答えてくる。
モデルがデートをしたいと言ってきたから、じゃあデートを撮影しましょうか、ってそれじゃあ捻り無さ過ぎで監督としては馬鹿丸出しの話なのだが、その時の僕は馬鹿でいいんじゃないかと感じていた。
何故ならそれを言う彼女が「いい顔」をしていたから。その彼女の真剣な顔は僕にこう告げていたのだ。

あたしは「デート物を撮影したい」んじゃなく「デートがしたい」んだ、と!

 香月藍、このDVDの中でとても「いい顔」を見せていると思う。(引用ここまで)

むら岡

二月発売だそうです。
http://www.gas-web.com/J/Index-j.htm

僕も、女の子のいい表情が撮りたいから、この仕事をしているのかもしれません。


  1. 2008/01/26(土) 01:13:02|
  2. AVを作ること
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